life school theater workshop

ワークショップについての考察

年が明けて半月ほど経ちました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
私はといえば、ほぼ自宅にいたという、非常に珍しい年末年始を過ごし、日常の延長が続いているようで、長いモヤモヤの中を歩き続けているように感じてます。

この文章は長くなってしまいました。もう少し推敲したい気もありますが、日々考えていることが変わるので、今考えていることを書きます。ご理解頂きたいのは、ここに書かれていることは、誰かをけなすつもりも否定するつもりもないということです。共感する方もいらっしゃるかもしれませんが、基本的には自分が思ってたことに変化が生まれたということだけです。例えば「辛くないカレーなんか食べる意味がない」と思っていたのに、「辛くないカレーもいいじゃん」と気づいてしまったというくらいの事です。

去年の緊急事態宣言から、パタと人と会う機会が減りました。中止になった授業やワークショップはとても多く、一方で、オンラインで配信するという授業が始まったり、Zoomで会議や打合せをするという機会増えていきました。

2020年5月末に緊急事態宣言が解除され、100%とはいかないまでも、実際に集い、劇場でワークショップをしたり、学校で授業を行うということをやってきました。
そしてその時には「やはり実際に人に会ってワークショップをするのは良いなぁ」と感じましたし、なんというか、生きる喜びというか、自分が「必要とされている」「生きている意味」みたいなことを感じたりしていました。
なので、その時は「オンラインでやるくらいなら、やめた方が良い。対面でやることを、対面でどうリスクを減らしてやれるかを考えることに集中すべきだ」みたいなふうに考えていました。

そして9月になり、大学での授業が再開しましたが、大学生は変わらずオンラインでの授業をやっていました。私は「小中高が学校に集って授業をやっているのに、大学生だけ大学へ行けないのはおかしい」と、余計なお世話ながら、強く思っていました。自分が大学生だったらストレスがたまるだろうな、とか、ネットやテレビのニュースでも大学生が「大学に行けないことへの辛さ」みたいなことが報道され、共感していたものです。

半期分のシラバスはつくりましたが、つくりあげた時には「途中で変わるだろう」と思っていました。例年でも、学生の人数や好み・性格などで、少しずつ変えているので、珍しいことではありませんし、オンラインでもそうだろうとは思っていたからです。どのくらい時間がかかるのか等、経験則がまったっく役に立たないし、どの程度理解してもらえるのか、どの程度やってもらえるのかなど、全く未知な領域だったので「変わること前提」で考えていました。文字通り「机上」でしか、頭の中でしか考えられなかったので、自分でも「100%納得したプラン」ではないと言わざるを得ないです。

大学のオンラインでの授業を始めますが、「演劇なんだから、対面でやることに意味がある!」と(なぜか)使命感に燃え、大学と掛け合って、数回対面での授業を行えることとなりました。
そして10月には、一度対面授業を行うことができました

学生たちの授業後の感想でも「最初は不安だったけど、楽しかった」という肯定的な意見が多く、「私は間違っていなかった」と一安心しました。
そこで「100%納得したプラン」にすべく、対面とオンラインの組み合わせたシラバスに作り直しました。公には修正しませんでしたが、自分なりに組み直し、ある程度納得できる進め方を見いだしたように感じました。
「対面でやるために、オンラインでこの部分をやっておこう」というように考え直したわけです。
この時点では、自分でも不思議なくらいにワクワクしていました。

ところが12月に入り感染者数の急増。「20代の新規感染者が多い」「悪いのはあいつだ」と標的を作らんばかりにニュースでも毎日のように取り上げられました。
12月にも対面で2回目の授業を考えていましたが、「私の想いだけで授業を行うのは良くない、学生の意見も聞くべきだ」と考え、直前に学生にアンケートをとりました。結果「対面での授業は楽しいけれど、大学に行くのは不安」という意見の方が多かったために、オンラインで授業を行うことにしました。

12月(それ以前?)からの第三波以前から、自分なりにオンラインでの授業のやり方を工夫していました。ビデオを作ったり、プレゼンテーションソフトを駆使して、分かりやすく説明することを心がけたり。
実際ビデオや説明に関しては好評で「よく理解できた」「楽しい」というような感想を多く頂きました。

しかし第三波が本格化して、授業で何をやるべきなのかが分からなくなってしまいました。
対面でやれることを目指し、対面でやれるようになった時点で、シラバスをつくりかえたので、完全に「対面ありき」での頭になっていたからです。

おそらくこの時に、私は考え方というか、考えの出発点を変えたと思います。明確に「考え方を変えなきゃダメだ」と思ったわけではないですが、ぐちゃぐちゃした頭の中で、「面白いことって何だ??」と考え続けました。
けっして「本質的に何をやりたいんだ?」なんて哲学的なことを自分に問うていたわけではありません。第一段階では(それでも多いのですが…)

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どうしよう… → 何したらいいんだろう… → こんなのはどうか? → それほど面白くない… → じゃあ、これは? → 意味が分からない… → ちょっとパソコンを離れる(散歩に行くなど)
→ (そのまま夕飯の支度を始めるなどして、全てを忘れる) → 数日くり返す

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(散歩から帰ってきて、または別の日に)こんなゲームをやりたいなぁ… → 対面ではどうやってたっけ? → それをオンラインで実現するためにはどうすれば良いんだ? → 分からん… → でも、聞き書きすることはできそうだ → 出欠をかねて出してもらってるGoogleフォームに書くのは… → ちょっと違う感じだな… → あ、Googleドキュメントを使えば良いのか → (それまで考えてたことを忘れて、聞き書きを書くテンプレートをつくる) → 疲れて散歩に行く → 数日くり返す

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(散歩中) →Googleドキュメントって、もしかして同時にドキュメント見られる? → (歩きスマホでやり方を検索) → なるほど…、共有の仕方もいろいろあるな… → 家に帰って試す → しかし、一人でやるだけじゃよく分からないな、一人何役もやって経験しなきゃダメだ… → 一人で、パソコン×2、スマホ×2、タブレットの5役で実験してみよう… → ちょっと面白いかも…

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みたいなことを考えてました。かなり悶々としていましたし、時間はかかりましたし、お金にはいっさいなっていませんが、不思議と楽しかったです。まあ、私がこういう事が好きだという結論なのかも知れませんが…。

とにかく思いついたので、Google ドキュメントをつかってワークショップや授業をやってみました。嬉しいことに思いの他手応えがありました。その経験を再構築して、一般の方を対象とした別のオンラインワークショップを何度か進行しました。すると、とても好評だったのです。

今ふりかえると、Googleドキュメントを使用して以降、2020年4月からやっていたオンラインとの関わり方を少し変化させていました。

これまで授業やワークショップをする時に、例えばZoomをやることが目的になっていたように思います。Zoomで同じ場にいれば、自然と何か楽しいことが起こるはずだと、自分で「どう使うか」ということを考えずに、使うことを目的にしていたのです。そこが間違いだったわけです。

一方、Google ドキュメントは、新しいものでもなんでもありません(Googleドキュメントを広めたいわけでもありません)。多くの方が使いこなしているものです。それは、鉛筆やハサミと一緒です。道具です。幼い頃は、つまり始めのころは、道具を使うこと自体が楽しいですし、それを目的としても良いのかもしれません。しかし、鉛筆を使って何が書ける(描ける)のか、ハサミを使って何をどうやって切るのか、書いた(描いた)ものをどう使うのか、切ったものをどう使うのか?というをすることによって、楽しいことの幅がどんどん広がっていきます。

Zoomにしろ、Googleドキュメントにしろ、最初は使うこと自体が楽しいです。でも、そこで終わっていたら何も変わりません。鉛筆やハサミと同様に道具として使うことができるようになって、初めて見つけられる楽しさや見えてくるもの、共有できることがあるのです(例としてZoomとGoogleドキュメントを紹介していますが、他にもたくさんのツールがあります)。

心に余裕が出来たからかも知れませんが、「何が面白くて、何が面白くなかったのか。何をやりたかったのか。自分が好きなこと、こだわろうとしていることは何なのか」ということを改めて考えてみたわけです。それが第二段階
結果、薄々感じていたかもしれないですし、ごまかしていたのかもしれないですが、改めて自分で気づいた(再確認した)ので、今、凄く驚いています。その驚きが、このブログを長々と書く原動力になっているわけですが…。

それは
演劇じゃなくっても良いのかも…!

ということです(※くり返しますが、演劇を否定しているわけではないです。自分の考え方の変化の話です)。以前から「『演劇が好き』という人より、自分は演劇が好きじゃないのかもしれない」と思っていましたし、言っていました。それでも「『演劇にあんまり関わったことのない人』よりは好き」だと思っていたし、楽しいし、素晴らしいものだと思っていますし、今でもそれは変わりません。

一方で、例えば、映画や海外ドラマも好きだし、アニメを見たり、漫画を読んだりしますし(偏ってますけど)、ドキュメンタリー番組や小説も好きだし、フィクションも好きです。Macも大好きだし、写真を撮ったり、ブログをつくったり(自分のHPを1997年頃には既に持っていました)、PowerPointで遊んだりするのも好きです。小学生と演劇をつくることは大好きだし、いや、演劇だけじゃなくて、クッキーやパンを焼いたり、散歩に行くのも楽しいし、いやいや、それは大人とワークショップやる時も一緒だし、知らない街を歩いたり、初めて出会う人の話を聞いたり、身体を動かしたり、声を出したり、演劇を発表するのも見てもらうのも好きだし…。

こんなことは多くの人が思っていることだと思います。一人の人が、一つのことしか好きであるはずがなく、みんないろんなことを好んでいて、それがその人を形成していると思うからです。だから、わざわざここで書くようなことではないです。しかし、私は気づかなかったのですが、上に書いてあるようなことを当たり前にやっていた時には、全部が一つに繋がっていたのに、オンラインで何かをやろうとした時に、なぜか思考が分断されていました。そして分断されていたことに気づいていなかったのです。つまり

これまでやってきたことを、100%は無理としても、これからはオンラインでやらなくてはならない。でも、そんなの無理だよ。無理だったらやらない方がまし!

最初は考えていたわけです。そして

オンラインでも、そこそこやれるかもしれない。話を聞くくらいなら、何かを書くくらいならできるかな。小グループで少し話すこともできるな。声で表現するくらいはできるな

と、次の段階では思っていました。
でも結局これは、これまでやってきた自分の持っている手法を、オンライン上に無理やりあてがって、やっているようなフリをしていたに過ぎなかったわけです。しかし、オンラインで授業やワークショップを進行して、手応えを感じたため、少し「何が楽しかったのか」を客観的に考えました。すると

自分のやりたいこと好きなことというのは、「一方通行ではなく、いろんな人の意見が交錯して、アウトプットのための結論を出す方向に向かう場にいること」だったのだ。それをワークショップと呼んでいたんだ

と、今さらながら、改めて思ったんです。

例えば、Googleドキュメントを使うということは、紙と鉛筆を使うということです。ハサミやノリをプラスしても良いかもしれません。リアルな現場で「さあ、今日は面白いことしますよ〜。ほら!紙と鉛筆です!」と言ってワークショップを始めても小さい子ならともかく、「ぽかーん」とするだけです。「ニックネームをを書いてみましょう」「絵しりとりをしましょう」みたいに始めると、楽しいかもしれません。どのような場を作り、どのようなシチュエーションで紙と鉛筆、ハサミやノリを提示するのかが大切なのです。

Zoomの方がもっと顕著です。「Zoomやりますよ〜!」と言われて、最初はパソコンやスマホの画面に人が映し出されることに感動しましたが、リアルな場面で考えたら、活動場所に単に人が集ったにすぎません。「自己紹介してみましょうか」「アイスブレークのゲームをやってみましょうか」ということで、その場にいる人の距離が近づいたり、他の人を理解したり受け入れたりするわけです。そのためにZoomを道具として使うに過ぎないのです。それは、例えば公民館の部屋を一室借りるという事前準備と同じことです。

このことは、パソコンの前にいるのが嫌になって、散歩にでかけている途中に、ふっと頭に落ちてきました。「自分の持ってるスキルというのは、ワークショップのファシリテーターというものであり、演劇になることもあるけど、いわゆる演劇にならずに、絵を描いたり写真を撮ったり、散歩して絵を描くだけで終わることもたくさんあるじゃないか。いわゆる演劇的なことを、オンラインでやろうと考えすぎてたんじゃないのか?詩を書く、絵を描く、話を聞く、そういったことがとても演劇的だって、自分で偉そうに言ってたじゃないか。なのに、オンラインになった瞬間に、そのことを忘れてしまったのではないか?オンラインに遊ばれてたんじゃないの?ICTとやらに食らいつこうとしていただけじゃないの?楽しいと思うことは何なのか、もう一度考えてみよう。すでにできてることもたくさんあるじゃないか!」

もう一度書きますが、私が考えているということであって、演劇というもの、対面というもの、誰か、何か、を否定するつもりはありません。
反対意見があると思いますが、演劇公演をオンラインでやることに、少なからず違和感を感じていました(もちろん、応援はしていますけど)。上で書いたことは、その違和感に通じるものだと発見しました。演劇公演をオンラインで見る気にならなかったのですが、それが間違いだということに気づいたということかもしれません。「演劇公演をそのまま映像で流しても、例えばYouTubeにはかなわないわけです。最初からそのメディアに合わせたやり方でアプローチしているのだから、演劇をそのままのせても、借りてるだけに過ぎない。オンラインでやらない方がよい」と思っていたわけです。同様に、テレビで仕事がなくなってきたタレントがYouTubeでやってるのも、どこか違和感を感じていました。YouTuberが頑張ってきたことを奪っていくような気がしていて…。
でも改めて考えた時に「タレントがやりたい」と思っていることは、本質的にはテレビでもYouTubeでも変わらなくて、それを批判するなんて、自分は何様のつもりだ!と思いました。むしろ、本質をとらえている分、さすが!というべきではないのか、と深く反省しました。
演劇も、今は「オンラインにのせてる」だけの演目も多いかもしれませんが、作品をつくる、想いを伝える、という本質を見失わなければ、これまで以上に発展する可能性があると、非常に深く反省しました。

改めて書きますが、「他の人と協働作業をする場をつくる」ことを私はずっとやってきて、それが好きだし、そのことを続けたいと思います。とするならば、それは演劇である必要はないのかもしれない、と考えました。
もちろん演劇は好きだし、これからも関わっていくと思いますが、オンラインという場になった時に、これまでの手法にこだわりつつも縛られずに、いろんなことを考え、試していけば、モヤモヤの中に隠れていた本質的に何を大切にしていきたいのかが少しクリアになるのではないでしょうか。そして、クリアになってワークショップを続ければ、その結果としてアウトプットが演劇、もしくは演劇的なものにむしろなるのではないかと、今は思っています。自分の持っているスキルが演劇的である以上、そうなるのは自然なことだと思います。

…………ここまで書いて、新たに発見しました(文章を書くというのは自分との対話です)。前述の「演劇じゃなくても良いのかも」というのは(自分で書いていてなんですが)間違いです。正しくは

オンラインでのワークショップを、演劇と呼びたい(自分に偽ることなく思いたい)!

だったんです。前述にもありますが「絵を描く」「地図を作る」「本を作る」「料理をする」というようなことは、大げさではなく「演劇」だと思っています。でも一方で「オンラインでの演劇」を「演劇」だと思えませんでした。そこに違和感を感じ、オンラインのワークショップはダメだと思っていたわけです。そして楽しみを見いだした時に「演劇じゃなくても良い」と考えたわけですが、そこにもまだ考え方の分断がありました。
これも以前から言っていることですが

・演劇と生きていくことは似ている
・演劇づくりとワークショップは、私の中では同義だ
・ワークショップは生きることに繋がっている

なぜワークショップをするのかと問われれば「究極的には世界平和のため」と答えていたのにも関わらず、これまでのオンラインワークショップが「世界平和」に繋がっていると思えなかったことがモヤモヤしてた理由だったんです。だから「演劇じゃなくても良いのかも」と思ったわけですが、演劇さん、ごめんなさい、私が間違ってました。
今はまだ「オンラインのワークショップは演劇で、世界平和のために続けてます」と確信を持って言えないかもしれませんが、でも可能性を見いだしたと、自分では思っています。

今、「ICTを使うことを目的にするのではなく、道具としてちゃんと使う」自分なりな実践を少し共有したいと考えています。私のワークショップを気に入って下さってる方には伝えたいと思っています。それが対面なのかオンラインなのか、共有の方法を考え中です。(←今ここ、みたいな)
何かご意見あったら、お知らせください。

長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。